2006年03月21日

バカマスゴミの低脳女子アナとエセお笑い芸人達

21日付産経新聞の正論欄は曽野綾子氏による「騒々しく描写力を失った日本社会」という寄稿であった。ここまで滅多切りにされると気持ちがいいですね。

 たしかに所謂「女子アナ」なんかただのインフォメーションガールくらいにしか感じていないのも事実。せいぜい局専属のアイドルくらいなもんだろう。多少顔が良くて、お喋りならばだれでもできそうな、たいしたことのない商売だと思う。

 また、最近のお笑い芸人とやらは目を覆いたくなるほど酷い。愕然としたのが「アンガールズ」とかいう、ヒョロヒョロしたオカマ見たいな二人組みだ。あんなの何がおもしろいんだ?一度、彼らのネタを見たことがあるが、笑う場所が全くなく、それこそ中学生の学芸会よりもヒドイお芝居を見せられたような感じで、あんなのお笑い芸人とはいえない。
 それと見るに耐えないのがいじめられ役の芸人達。出川某とか山崎某、ふかわ某みたいなのがそれである。あの程度の芸に何の存在意義があるんだ?

 そもそも番組作り自体もプロデューサーと芸人たちが結託して怠けすぎだ。他人の家をリフォームする番組では、最初と最後に何人かの芸能人がくだらないコメントをするくらいだし、とんねるずはただ飯をくって、愚にもつかないお喋りだけで1時間無駄にするだけ。あの手の番組は「芸」なのか?ただの「馴れ合い」とか「内輪受け」じゃないの?

<<なぜ甲高い女子アナの声>>
 私一人の感覚なのだろうが、最近の日本は実に騒々しくなった。騒音は毒ガスと違って人を殺めることもだが、静寂のみが育てる人格が阻害されることを思うと、意外と重大なことかもしれない。私が日本製のテレビ番組をあまり見なくなったのは、騒々しくて幼稚な内容に耐えられなくなってきたからだ。
 昔、小節の修業時代に、いい文章とは自制の効いた表現のことだ、と教えられた。
 「とっても海が美しいの」
 という文章ではどう美しいのかわからない。それは表現ではなく説明である。しかし「海面は滑らかにまばゆく輝く。あかるい鏡の面をさっと横切る影のような飛魚は、水の中に姿を消すとき、きらめく水滴の小さな泉を作る」(サマセット・モーム『太平洋』より)と読めば、ああ海は胸を躍らせるほど輝いているのだと実感する。
 人はおかしい時には自然に笑う。しかし笑い声そのものは売り物にはならない。また売るものでもないだろう。笑い声は結果だ。落語家も漫才師も、だから自分ではめったに笑わない。彼らは怒り当惑し罵ってみせる。彼らは描写しているので、説明をしているのではない。その結果観客は笑う。
 テレビが喧しいのは、タレントとしてのプロの技術を持たない人たちが、自分たちのおふざけの結果の笑い声を、商品価値のあるものと勘違いして流しているからだ。笑い声だけではない。外国で長く暮らしてきた一人の女性が、在る時、私に聞いた。
 「どうして日本の女性のアナウンサーたちは、あんなに甲高い声を出すんでしょう」
 彼女たちは、感動を声の高さで伝えようとして、きんきら声になる。息を切らしながら「とっても」という言葉を乱発することで感動を伝えようとする。ところが感動したというのは説明で、描写でも表現でもないのだ。
 アナウンサーやキャスターというものは、私たちと違った喋る訓練をしたはずだ。だから私は、ニュースを二人で(時には三人で)タッグマッチのように流すのも好きではない。あんなやり方なら、高校生の放送研究部の部員でもできるだろう。プロならニュースは一人で受け持ち、人権費の削減を考えるべきだ。BBCでもCNNでも、アナウンサーには性別、年齢、人種、容姿など実に個性豊かな人たちがいて、原則一人でそのニュースをこなしている。
 私は子供の頃、ジェスチャーというのは子供の遊びだと思っていた。最近ではいい大人の報道番組のキャスターたちが「ズームイン」と揃えて手を出してみたり、下手な寸劇をしたりする。大人向きの時間なのにすぐマンガのキャラクターのようなぬいぐるみも出るし、説明を補足するための奇妙奇天烈な装置や扮装なども多い。大人が大人でないのは、やはり描写力の不足からだろう。

<<ドラマも中学生の学芸会並>>
 一般に日本のテレビ番組は画面に人が大勢出過ぎる。プロデューサーたちは、出演者を大勢出せば安心するのだろうが、コストダウンの方法はここにもある。コマーシャルの美女が「なんとかだね」と薄汚い男言葉を使ったり、何を売ろうとしているのか商品が最後までわからないコマーシャルもあって疲れる。
 外国産のドラマには、苦味や悪の匂いがちゃんと加味されているから、それで大人が見るに堪えるものになる。
 「皆いい子」で育った世代の日本人には、社会と人間は、善だけでも悪だけでもない要素で成り立っている、という当たり前の認識がないから、中学校の学芸会みたいなセリフが芝居の売り物になると考えるのである。

<<特権的資源は有効活用を>>
 多くの人は敬語も使えない。「自分をほめてあげたい」などと昔はいう人はなかった。自分をほめたいなら黙ってほめていればいいことだ。それでも口にしたければ「自分をほめてやりたい」と正しい日本語で言ってほしい。子供や飼い犬に対して、「ほめてあげました」ではなく「ほめてやりました」と正しく言える日本人は例外になった。
 BBCやCNNがエチオピアの飢餓で死にかかっている子供たちを報道している時に、日本のテレビは軒並み温泉とおいしい店を特集している。私にとって自分が食べられず体験できない娯楽や快楽は、仮想現実だからほとんどおもしろくない。
 どんなテレビでもいやなら見なければいいのだが、電波は誰もが自由に使うことのできないものなのだ。その特権的「資源」がこんなふうに使われていいのかと思う日はある。
posted by Windy City at 23:03| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | マスコミ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
日ごろ友人達と話し合っている事を的確な表現でバッサリと切りつけていただき、胸のすくおもいです。
「正論」に載せるに終わらせず、フジサンケイグループとして、メディアの方向を考えて頂きたいところです。日本語の乱れも、番組の幼稚化も、近年の拝金主義が「根」のように思えてなりません。
「悪貨は良貨を駆逐する」状態が今のTV界に蔓延しています。
Posted by 松広 玉枝 at 2006年03月22日 08:05
atsuさんのとこから来ましたー。大笑いしましたよ。アンガの”きもかわいい”結構笑ってますよ。あと、とんねるずは大好きです。好きな事やってるからうらやましいですね。TVなんてそんなものなんです。女性キャスターの声については昔久米さんが、小宮さんにもっと低く!って注文つけたって聞きました。フジのアナは、タレントみたいですもんね。40過ぎのオバサンから見ると、下着みたいな洋服で済むからうらやましいと思いますね。TVより、メールしてたりする方が楽しいこの頃です。
Posted by ラテラテ at 2006年03月22日 17:45
松広様:
そうなんですよ。産経新聞と同じグループであるフジテレビの女子アナのレベルが一番低いですよね。TBSもテロ朝も大して変わりませんがね。日テレは唯一ニュースを読める女子アナが多いような気がします。テレ東は... まぁいいや。

ラテラテさん:
”きもかわいい”っていうんですか!ああいうの!!なんかオエーって感じしかしませんが。最近はやりの幸田なんとかっていう歌手の”エロキモイ”... じゃなくて”エロカワイイ”みたいなもんですかね。
とんねるずは私も結構好きなんですよ。でもやっぱり番組作るのを怠けすぎなんですよね。あと「大道具さ〜ん」みたいなギョーカイ超内輪受けの秋元康路線じゃないですか。悪いんだけどあんなのでカネ貰ってるんだったら詐欺ですよ。
ここ数年ナインティナインも番組作り怠けすぎですね。なんでも大仕掛けで2時間スペシャルみたいな。ちゃんと芸をやらんかい!って叫びたい。
Posted by WindyCity at 2006年03月22日 21:42
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