しかし、一方で自己否定ばかりしていては自己嫌悪に陥り、進歩を阻むことになる。
私は自己否定をするには条件が必要だと思っている。それは自分の良いところを知ること。たったそれだけだけれども結構難しい。自分の良いところって何だろう...
履歴書などを書く時に長所・短所という欄があり、自分から見た簡単な性格分析をする必要があるけれども、自分の良いところを知るにはあの程度では不十分であろう。
なぜ、自分の良いところを知らなければならないのか?それは自己否定を繰り返すうちに、自己否定そのものが目的化し、ただのあら捜しや自己否定の名を借りた謙遜自慢になりかねないからである。(「謙遜自慢」は私が今作った言葉だが、非常に謙虚に見えるが、実は内心そんなこと全く思っていない非常に傲慢な態度のこと)
当たり前かも知れないが、自分の良いところばかり探して、自己否定をしないのも他人からするとかなりの迷惑人間である。この手の人は自己弁護、自己義認のために人生の大半を費やし、目的のためならば他人を貶めても意に介さない。かなり迷惑な存在だ。こんなやつはお話にもならないが、自己否定ばかりしている奴も同じくらい迷惑な存在なのである。
どういうわけだか(日本の)クリスチャンにはこういう自己否定マニアが多い。そもそもキリスト教は絶対的な神がいて、人間はその前では罪を背負った存在であり、神の許しを得るには自分の罪を認め、神の絶対的な存在に従わなければならない。
これはどうも
神は絶対に正しい → 自分は悪い → 自分の存在は否定されるべきである
という流れになってしまって、特に最後の自分を否定をすることが神の許しを得るための儀式となってしまう帰来がある。
自分が次のステップへ成長するために自己否定は必要だと思う。しかし、不健康な自己否定は何も生まない。
次に進むために何が必要なのか目的を明確にし、そこで自分には必要がないはずなのになぜか固執しているものを素直に認め、捨てる作業が自己否定ではないかと考えている。